成島)僕は一高のすぐ近くの“東高”だよ。僕の時はくじ引きだったんで選べなかった。甲府時代は映画には興味がなくて、上京してから“名画座”なんかで観た。当時は500円で3本も観れて、はまっちゃって。今思い返すと何も観てなかったからどれも面白かったんです。でも、当時の流行であった“ゴダール主義”にも染まらず、『ローマの休日』もいいけど、“小津さん”もいいって言っていた。周りからはそれは変だと言われたけどね(笑)。1年間染まらずに、浴びるようにもの凄い本数の映画を観たことが良かったと思う。それで大学で何となく“映研”に入って、自主映画で“ぴあ”のコンテストに応募したら、ある作品が入選したんです。その時に“長谷川和彦さん”“大島渚さん”が推薦してくれて、飲んだ席で二人から「こいつは監督になるしかない」って言われた。だったらとその日に決めたんです(笑)。そこからは自己暗示ですよ。僕は真面目じゃなくて勉強もしなかったんですが、映画だと“医学”も勉強する。『T.R.Y.』の時は中国革命や中国史を勉強しましたが、頭に入るんですよ。映画以外は、スポーツも勉強も駄目。そこで大島さんからそんなことを言われた日にはこれしかないって。1本かそこら助監督やって、2年くらいで監督になれるって言われて、それから監督やるまで20年かかった(笑)。
岩崎)現場で学んだということですか。
成島)学校には行っていません。他はひねくれていたけれど、映画に対してだけは“素直”だった。先輩からは「監督になりたかったら先ずはシナリオを勉強しろ」と言われた。それから5年間はずっとシナリオの書き方をおぼえました。でも映画化には至らず、ある時このまま現場にも出ないのはまずいだろうと思って、お願いして相米監督のもとで助監督をやるようになった。知識もなかったので、1本1本新鮮で疑うことがありませんでした。映画学校の奴には勝てないと思ったから、何でも吸収しようとしていた。その頃出会った“役所さん”“柄本明さん”を始め、その頃の仲間と今また一緒にやっているという感じです。特に“堤さん”や“夏川さん”とは、僕と同じ遅咲きで苦労してあそこまでなった役者さんです。どこか吸収の仕方なのか、共通したところがあるように思います。例えばこの映画に対する考え方は、堤さんと似ていて、お互い周りが良くないと自分は立たないと分かっていました。堤さんは「本当の主役は夏川さんと余さん」と言い続けていました。「自分は受けだから」って。
丸山)監督と脚本とで、作品に対する向き合い方は違いますか。
成島)50人も100人も使って監督するのも楽しいけど、そうすると孤独に机に向っていたくなる。いま千葉の房総に住んでいますが、田舎屋を借りていて未だに家賃は5万。敷地が300坪もあって、シナリオを書いている時は、庭で畑をやったり海まで釣りに行くとかして自分のペースで仕事をしています。そうしているうちに現場が恋しくなってくる。その繰り返しです。
